藤田嗣治展(府中市美術館)の感想|乳白色の肌から戦争画、宗教画まで

かつかつ主夫@katsu2_shufuです。

東京都府中市にある府中市美術館で開催された「藤田嗣治展 ― 東と西を結ぶ絵画」(会期:2016年10月1日 ― 12月11日)に行ってきました。2016年は藤田嗣治の生誕130年記念ということで、4月に名古屋、7月から兵庫と巡回し、10月から東京の府中市美術館で開催された展覧会です。

展覧会の内容や印象に残った作品、混雑状況、府中市美術館へのアクセスなどについてまとめました。

変遷する画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ)

foujita-self-portrait-1929(自画像 / 1929年 ― 東京国立近代美術館)

藤田嗣治と言えば、1920代にエコールド・パリの中心人物として華やかな生活を謳歌したことで知られています。その頃に描いた細い輪郭線と陶器を思わせる乳白色の肌が特徴的な裸婦画や、第二次大戦中に描いた『アッツ島玉砕』などの巨大な戦争画が有名ですが、本展覧会ではそれら以外にも、キュビスムなどに影響を受けた若き日の作品や中南米、中国を訪れ華やかな色彩に影響を受けた1930年代の作品、キリスト教に帰依した晩年の宗教画など、藤田の変遷する作風を時代を追って楽しむことができます。

国内外の代表作はもちろん未公開の作品を含む総出展数は110点。同じ作者が描いたとは思えないスタイルの多様さに圧倒されました。

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作品紹介|乳白色の肌、戦争画、理想の子ども、宗教画まで

藤田嗣治展 ― 東と西を結ぶ絵画」は、全6章で構成されています。以下、章ごとに藤田の経歴とスタイルの変遷を辿りながら印象に残った作品のいくつかを紹介します。

模索の時代|卒業制作の自画像他、若き日の作品

藤田嗣治は1886年11月27日、東京府牛込区(現在の新宿区)に四人兄弟の末っ子として生まれました。1905年、19歳の時に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学。このとき進路のアドバイスをしたのは森鴎外だと言われています。森鴎外は1907年に軍医総監(軍医の最高位)に就任しますが、その後を継いだのが嗣治の父、藤田嗣章(つぐあきら)です。嗣章は息子嗣治の進路について先輩である森鴎外に相談していました。

東京美術学校では黒田清輝の指導を受けましたが、当時主流だった印象派や写実主義的な技法ばかりの授業になじめず成績は平凡なものでした。卒業後は展覧会などに出品しましたが文展などでは全て落選。卒業の3年後の1913年にフランスに渡りました。

フランスのモンパルナスに居を構え、ピカソやキスリングらとの交流の中で多様な絵画表現に出会い、日本で学んだ黒田清輝流の印象派のスタイルと決別します。

本展覧会の第1章「模索の時代」では、学生時代の作品やキュビスムに影響を受けた作品など、自分のスタイルの確率を模索する若き日の藤田の作品を観ることができます。

▼東京美術学校の卒業制作として描かれた『自画像
foujita-self-portrait-1910(自画像 / 1910年 ― 東京芸術大学)

卒業制作での自画像の制作は現在の東京芸術大学でも100年以上に渡って受け継がれる伝統となっています。東京芸術大学のWEBサイトから卒業生の作品をいくつか見ることもできます。
>> 東京藝術大学大学美術館収蔵品データーベース

パリ画壇の寵児|五人の裸婦など

第1次世界大戦中は貧窮にあえいで絵を燃やして暖をとるなどしていた藤田でしたが、しばらくすると絵が売れ始め、1917年にシェロン画廊と契約し初の個展を開催。日本画用の絵筆である面相筆を用いた細く精細な描線と独特の乳白色の肌をした裸婦画で一世を風靡し、藤田の名は急速にパリで広まっていきます。

1919年にはサロン・ドートンヌに6点を出品して全て入選。1922年には「モンパルナスのキキ」と呼ばれ、エコール・ド・パリの画家や芸術家を魅了したアリス・プランをモデルに『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』(本展覧会未出展)を描き、センセーションを巻き起こしました。

第2章「パリ画壇の寵児」では、乳白色の肌の裸婦をはじめ、パリの風景を描いた作品や静物画などが展示されています。

1929年に出版されたキキの自伝『Kiki’s Memoirs』の序文はアーネスト・ヘミングウェイと藤田嗣治によって書かれています。モンパルナスの女王と呼ばれた彼女との交流は、藤田がエコール・ド・パリの中心人物であったことを示しています。

▼サロン出品作の中で最高額の値がつけらた1923年の作品『五人の裸婦』。裸婦はそれぞれ「触覚」、「聴覚」、「味覚」、「嗅覚」、「視覚」の五感を象徴しています。
foujita-five-nudes-1923(五人の裸婦 / 1923年 ― 東京国立近代美術館)

さまよう画家|世界を旅して

1931年、裸婦画のモデルも務めた恋人のリュシー・バドゥ(ユキ)と別れ、藤田はマドレーヌ・ルクーとともに中南米、中国、日本国内への旅に出ます。そこで目にした色彩豊かな世界と固有の文化からの影響で、それまでの乳白色の肌と細く繊細な描線に代表される作風とは全く異なる作品を描きました。

展覧会の構成としては第3章「さまよう画家」と題されており、確かに新しいスタイルを模索する中での迷いのようなものも感じられましたが、個々の作品を観るとまずその作風が全く異なること自体に藤田嗣治という画家の幅の広さ、奥深さを感じます。色鮮やかな色彩とそこに生きる人々の姿からは未知の世界に遭遇した藤田の興奮が伝わってくるようで素晴らしかったです。

▼リオのカーニバルを描いた『カーナバルの後』抱き合う男女の後ろには疲れ切って眠りこける二人の男が描かれています。パリ時代の作品と比べると、同じ作者とは思えないほどに色彩や筆使いが異なります。
foujita-after-carnival-1932(カーナバルの後 / 1932年 ― 公益財団法人平野政吉美術財団)

▼沖縄に滞在したときに描いた『客人(糸満)』藤田の眼から見た沖縄は異国情緒に溢れています。
foujita-guest-itoman-1938(客人(糸満) / 1938年 ― 公益財団法人平野政吉美術財団)

この他にもメキシコで出会った画家北川民次を描いた『北川民次の肖像』、『メキシコの母娘』などが印象に残っています。

戦争と国家|アッツ島玉砕などの戦争画

▼猫が入り乱れて乱闘する様子を描いた『』第二次大戦中の1940年の作品。誰が敵か味方かわからない当時の混沌とした世界情勢を表現しているように見えます。
foujita-cat-fight-1940(猫 / 1940年 ― 東京国立近代美術館)

第二次大戦中、他の画家たちとともに藤田はプロパガンダのための戦争絵画の制作という形で軍に協力します。1941年5月には帝国芸術院会員に選出。それまでフランスを筆頭に海外で高い評価を受けながらも日本画壇からは認められてこなかった彼は皮肉なことに戦時下という特殊な状況において初めて祖国に認められることになりました。日本画壇に受け入れられ、なおかつ西洋でゴヤやドラクロワによって描かれてきた戦争を描いた大作という画家としてやりがいのあるテーマに出会った藤田は戦争画の制作にのめりこみ、物凄いスピードで絵を描き上げていきました。

1943年に描かれた『アッツ島玉砕』の前で手を合わせて拝む人や絵の前に賽銭を投げる老人を目にした藤田は「この画だけは、数多くかいた画の中の尤も快心の作だった」と語っています。

▼『アッツ島玉砕』戦争画の最高傑作と言われる大作。アッツ島の戦いでの日本軍の損害は戦死者2,638名。生存率は1パーセントに過ぎませんでした。
foujita-final-fighting-on-attu-1943(アッツ島玉砕 / 1943年 ― 東京国立近代美術館)

▼『ソロモン海域に於ける米兵の末路』写真などを元にせず藤田の想像によって描かれた作品。傷ついたアメリカ兵の乗ったボートの周りを鮫が泳いでいます。
foujita-amerikan-soldier-1945(ソロモン海域に於ける米兵の末路 / 1943年 ― 東京国立近代美術館)

▼『サイパン島同胞臣節を全うす』カメラマンが従軍できない場所のため、新聞報道などの情報を元に藤田が想像した状況を描いています。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』との類似やキリスト教的なモチーフが各所に見られます。
foujita-saipan-1945(サイパン島同胞臣節を全うす / 1943年 ― 東京国立近代美術館)

― 藤田嗣治の戦争画について ―

藤田の描いた戦争画の凄惨な描写を見ると、戦意高揚というよりも戦争の悲惨さを描いているように見えます。実際にそういった感想を持つ人も多いようです。

しかし当時の人々は、『アッツ島玉砕』のような悲劇的な絵画を目の前にして、玉砕の崇高さや愛国心に身を捧げる「兵隊さん」の勇気に頭を下げ、手を合わせ拝んだのではないでしょうか。大本営から初めて「敗北(玉砕)」として発表されたアッツ島の戦い以降、軍部は敗色濃厚な戦いにおける「一億玉砕」という精神の美化を意図していきます。陰惨な藤田の戦争画は戦況との兼ね合いで軍部が都合良く利用できるものだったのだと私は思います。

戦争画を描いていた頃の藤田の心境はどのようなものだったのでしょうか。軍医の家に生まれ軍関係者の知り合いも多かった彼が日本画壇に受け入れられた喜びと共に祖国の勝利に身を捧げたいと一心不乱に戦争画を描いたという藤田像。実は戦争に嫌気がさしていてだからこそ他の画家とは異なる戦意高揚とは正反対に見える作品を描いたのだという藤田像。私はどちらも本当であり偽りであるような気がします。パリ時代にアメリカ人を含む多様な国の才能と交流した彼の中には、戦争のただ中にあって、周りの人間からは推し量りようのない引き裂かれるような感情があったに違いありません。現代の私たちは藤田の言葉よりも、作品を通してしか彼の心理を紐解くことはできないように思います。そしてその解釈は見る人によって、時代によって刻々と変化していくのでしょう。

戦後、絵画を通して戦争に加担した準戦犯として日本中から非難された藤田は次の言葉を残し、失望と共に祖国を離れ二度と戻ることはありませんでした。

「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」

『アッツ島玉砕』と同じ1943年に描かれた『孫娘とおばあさん』(ランス美術館)という作品があります。少女と老婆を描いた心温まる構図でありながら全体的に色彩は暗く、私は戦時下における藤田の心象風景を垣間見た気がしました。

フランスとの再会|パリの街と理想の子ども

▼『猫を抱く少女』藤田独特の乳白色の肌と細い描線が復活しています。フランスに戻る途中のニューヨークで描かれた作品。
foujita-portrait-of-a-young-girl-with-a-cat-1951(猫を抱く少女 / 1949年 ― 個人蔵)

日本を追われるようにして藤田は妻君代とともにフランスに戻りました。若き日に交流した友人たちの多くが亡命したり亡くなっていましたが、ピカソとは再開し晩年まで交友が続きました。

1955年2月に妻の君代とともにフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消。1959年10月、ランスのノートルダム大聖堂で君代とともにカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと改名しました。レオナールは敬愛していたレオナルド・ダ・ヴィンチから。

第5章「フランスとの再会」での展示は戦争画を観た後ということもあってか見ていて気持ちが安らぐ作品が多い印象でした。

▼『美しいスペイン女』藤田独特の白と女性の衣服の黒との対比が美しい作品。本作の木製の額縁は藤田自身の手によるもので、犬や猫、ハートマークが彫られていて可愛らしいです。
foujita-spanish-beauty-1949(美しいスペイン女 / 1949年 ― 豊田市美術館)

▼『小さな主婦』子どものいなかった藤田は晩年、理想化された子どもの絵を数多く残しています。フランスパンを抱えた女の子が特に夫婦のお気に入りだったそうです。
foujita-small-housewife-1956(小さな主婦 / 1956年 ― いづみ画廊)

▼『ノートルダム=ド=パリ、フレール河岸』明るい色で描かれたパリの街の風景。背後にはノートルダム寺院が見えます。
foujita-quai-aux-fleurs-notre-dame-de-paris-1963(ノートルダム=ド=パリ、フレール河岸 / 1963年 ― ランス美術館)

平和への祈り|二人の祈り、聖母子礼拝堂

カトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタに改名した晩年はキリスト教的な題材の宗教画を多く描きました。国家間の戦争を目の当たりにし、戦争責任を問われて祖国から追われ二度と戻らなかった藤田の引き裂かれた内面の拠り所としてキリスト教があったのかもしれません。

▼1952年に描かれた『二人の祈り』聖母の前に跪く藤田と妻の君代。夫妻の周りを晩年に数多く描いた額の広い特徴的な顔の子どもたちが取り囲み、画面下方には異形の怪物が蠢めいています。
foujita-prayer-of-the-two-1952(二人の祈り / 1952年 ― 個人蔵)

晩年のレオナール・フジタは、シャンパン・メーカー、MUMM(マム)の社長ルネ・ラルーの協力を得て、ランスにあるMUMMの敷地内にて「平和の聖母礼拝堂」(通称、シャペル・フジタ)の建設に着手。建物から彫刻、フレスコ画、ステンドグラスまで手掛け、フレスコ画は毎日12時間、90日間で完成させました。

▼平和の母子礼拝堂(シャペル・フジタ)
foujita-chapelle-foujita-reims-outside(出典:tourisme-en-champagne.com)

foujita-chapelle-foujita-reims-inside(出典:tourisme-en-champagne.com)

礼拝堂の祭壇中央に幼子イエスを抱えた聖母マリアが描かれ、壁一面にはイエス・キリストの生涯を表したフレスコ画が描かれています。ステンドグラスの中には広島・長崎の原爆投下の惨状を表現したものもあります。

本展覧会ではキリストと聖母子像のステンドグラスが展示されていました。

1966年10月に礼拝堂はノートル=ダム=ド=ラ=ぺ(平和の聖母)礼拝堂としてランス市に引き渡されました。

フジタは礼拝堂の完成後まもなく体調を悪化させて入院し、1968年1月29日スイス・チューリッヒの病院でガンのために死去(享年81)。葬儀は洗礼を受けたランスのノートルダム大聖堂で執り行われました。

藤田嗣治展の混雑状況と所要時間

※会期は終了しましたが、参考として記事は残しておきます。

藤田嗣治展(府中市立美術館)の混雑状況と所要時間についてレポートします。

名古屋、兵庫と巡回した「生誕130年記念・藤田嗣治展」の東京・府中での開催は2016年10月1日から。私が行ったのは10月上旬の平日午後12時半過ぎで、けっこう空いていました。やはり上野や六本木ではなく府中であることや、同時期にダリ展デトロイト美術館展ゴッホとゴーギャン展など注目度の高い展覧会が目白押しだということも影響しているのでしょう。ツイッターなどで調べたところ、土日も比較的空いているようです。

客層は平日ということもあってか府中近辺に住んでいるのかな?と思われる高齢者の方が多い印象。『アッツ島玉砕』などの戦争画の大作は広いスペースに展示されているので、思う存分鑑賞できます。

解説文を全て読み、全作品を見て回った所要時間は約1時間半でした。

充実した展示内容の割にかなり空いていて、なおかつ観覧料が1000円と安いのでおすすめです。※会期は終了しました。

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府中市美術館へのアクセス|チケット他

「生誕130年記念・藤田嗣治展」の会場は東京都府中市にある府中市美術館です。最寄りの京王線府中駅または東府中駅から徒歩で20分弱ほど。府中の森公園という広々とした都立公園の中にあるので、散歩がてら歩いていくのも良いかもしれません。

▼府中の森公園の中には噴水や子どもの遊具があり散歩している方や子連れのお母さんの姿が多く見られました。
fuchunomori-park

駅から遠くアクセスが良いとは言えませんが、中央線方面、京王線方面からのバス便が豊富にあります。私は中央線の武蔵小金井駅南口から京王バスを利用しました。

電車・バス・車での美術館への行き方の詳細は府中市のホームページをご覧ください。

【府中市美術館】住所:東京都府中市浅間町1-3

― 藤田嗣治展 開催概要 -

会期:2016年10月1日(土) – 12月11日(日)※終了しました。
※月曜休館(10月10日をのぞく)

開館時間:10時 – 17時

チケット:一般 1,000円 / 高校生・大学生 500円 / 小学生・中学生 200円
※府中市内の小中学生は「府中っ子学びのパスポート」で無料。

― 展覧会レビュー関連の記事 ―

※会期が終わっているものもありますが、写真付きで作品を紹介しているので見てみてください。

▼ダリ展(六本木)の感想と作品紹介。2006年との違いなど。

▼ポンピドゥーセンター傑作展。無名の画家の作品が意表を突く素晴らしさでした。

▼宇宙と芸術展。チームラボの新作インスタレーションが体験できます。

▼60万人を集めたルノワール展のレビュー。

▼国立西洋美術館で開催されたカラヴァッジョ展のレビュー。

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