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主夫のブログ。育児、映画、展覧会、バスケetc

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あれ、君誰だっけ?不意に訪れる「子がいること」に対する違和感。

      2017/04/28

けっこう前に書いた記事です。今読み返すといまいち何を言っているのかわからなくて恥ずかしいのですが、一応残しておきます。

子どもが今約11ヵ月で無茶苦茶可愛いんですが、ふとした瞬間に君、だれ?って感覚になることがあります。

まだ寝返りを打てない時期に部屋の隅っこで仰向けになって天井をぼーっと見つめてる時とか、朝目が覚めると横の布団で「あたたたた」とか意味不明な言葉を発しているときとか、正真正銘自分の子のはずなんですが、なんていうか、当たり前に存在している感じというか、佇まいというか、そういった姿に違和感を覚える瞬間があるんです。

でも、妻に話を聞くとそういった感覚はあまりないようなんです。

この差はなんなんだろうって最近よく考えるんですが、自分の身体から一人の人間を産むという強烈な身体的経験をしている者とそうでない者の差なのかなぁと思ったりもします。

当たり前ですけど男は子供を産めませんね。いや、そんなことない。正確に言うと、生物学的に男性として生まれた人間は、今のところ子供を産めません(生物学的に女性として生まれ、後に子宮と卵巣を残した状態で性転換して男性となった人は子供を産めます)。もちろん今後の医学の進歩によっては産めるようになるかもしれませんが。

妊娠後、平均して10カ月ほど自分のお腹の中に子どもがいるという状態はその人間の考え方等にそれなりの影響を及ぼすのではないかと思います。どこに行くにも何をするにも腹の中に自分以外の人間がいるわけですから。

ぼくのように自分の身体から産んでいない人間からすると、出産までの期間は、段々と大きくなっていく妻の腹を見たりエコー写真を見たりして、ああ、ここに生命がいるんだなぁ、自分も親になるんだなぁとなんとなく思うことくらいしかできなくて、それはあくまでも頭の中で思い浮かべる抽象的な概念でしかないわけです。

産まれてきた子を腕に抱いた瞬間が最初の出会いとなります。問答無用で親子の関係を結ぶこととなる唐突に現れた存在に戸惑い、可愛いと思う一方で、え?君誰?という感覚も同時に抱き、その感覚はその後もしばらくの間続くことになります。

それに対して身体に様々な変化が起こるだけでなく精神的な浮き沈みも伴う産前の10カ月を過ごし、文字通り腹を痛めて子を産むという経験をした人間は子どもに対する「お前誰だよ」感を比較的感じにくいのではないか。そんなことを思うわけです。

とはいえ、女性が自分の腹を痛めて産むという行為を殊更強調して、母子の繋がりの強さを特権化するというのは、「女性が育児をするもの」というアナクロニックな考えを強化してしまうことにもなりかねませんね。

いくら自分の身体から産んだといってもお前誰だよ感を抱く女性も多くいると思いますし(現にぼくの姉がそうです)。

ぼくは幼い頃、寝る前とかに自分の母親の顔を思い出して、「この人誰だっけ」と思うことがたまにありました。親だろうが兄弟だろうが、一歩引いた視点でその顔を思い浮かべるとき、その相手との関係性が失われてしまう瞬間があって、そんなときに「この人誰?」っていう違和感を覚えるのだと思います。文学でいうところの異化でしょうか。

長年一緒に暮らしている家族の存在に疑問を抱かないのは、時間の蓄積による慣れや惰性によってその違和感が見えなくなっているということなのかもしれません。ふとした瞬間にそのような「一緒にいることの不可解さ」に気づくことはあっても普段はそれを意識しないで済んでいるというか。

でも、つい最近誕生したばかりの赤ん坊というのは、その子が産まれる前の生活がまだ身近なものとして記憶されているから、「一緒にいることの不可解さ」が剥き出しになっている。

だから自分の子であっても「君、だれ?」感を抱きやすい。自分の身体で子を産んだ人と産まなかった人との間に、「君、だれ?」感の強弱の差があるとしてもそれは程度の差であって、産まれたての赤ん坊と共に過ごす人間というのは皆、「君、だれ?」感を(無自覚だとしても)持っているのではないかと思います。

最近、皿を洗っているときとか洗濯ものを干しているときとか大相撲を見ているときとかにそんなことを考えています。

ちなみに、鏡に映る自分の顔を見て、「こいつ誰だよ」って思うこともよくあります。