先日、2歳の娘が通う保育園の運動会に行ってきました。
天候にも恵まれ、娘の駆けっこする姿や普段はあまり見ることのできないお友達とじゃれ合う様子などが見られて有意義だと感じたのですが、一点だけ不満というか驚きというか、「え!?」と思うことがありました。
それは、保育園でも組体操をやるということ。
組体操をしていたのは年長クラスの子たちでした。最初はブリッジなどの技を披露するのを見て「おお、凄いなぁ」なんて思っていたのですが、その後2段ピラミッドが始まり、最後には3段ピラミッドまでやるのを見て、ドン引きしてしまいました。
小学校、中学校における組体操中の重大事故がこれだけ世間の注目を集め、自治体によっては組体操を禁止したりピラミッドの高さ制限を課すところも出てきている中、就学前の児童が3段ピラミッドなどやっているというのは時代に逆行していると思うのですが・・。
まさか保育園にまで組体操の波が来ていたとは驚きです。日本における組体操信仰というか、執着というか、一体この現象はなんなんでしょうかね。
保護者の感動と子どもの安全。優先すべきは?
3段ピラミッドの一番上の子が両手を広げて「はい!」みたいな決めポーズをとったとき、周りで見ていた保護者が「感動する~」と一言。こういう反応をする人は多いでしょう。子どもたちが一生懸命になっている姿は感動を誘いますからね。
ヤンキー先生の呼び名でも知られ、安倍内閣で文部科学副大臣を務める義家弘介氏は、東京新聞のインビューで次のように語っています。
自分も小中学校で行ったし、小六の息子も去年やった。五~六段の組み体操で、息子は負荷がかかる位置にいて背中の筋を壊したが、誇らしげだった。全校生徒が羨望(せんぼう)のまなざしで見る中で、「ここまで大きくなった、見事だ」と私自身がうるうるきた。
出典:<組み体操 事故なくせ> 義家文科副大臣に聞く
義家氏の話は私からすると「身の毛がよだつ」ものですが、組体操を見て感動し涙を流すという保護者は決して少なくないと思います。
たしかに、子どもが成長した姿を見て喜ぶのは親・保護者としては自然なことかもしれません。しかし、子どもたちが自分の身を危険にさらしてまでそのような喜びや感動を与える必要はあるでしょうか。これは保育園・幼稚園以上に小学校・中学校に顕著な傾向だと思いますが、いつの間にか運動会が保護者のためのものになってはいないでしょうか。
あくまでも優先すべきは子どもたちの安全ですよね。子どもの安全と保護者の感動を天秤にかけてどちらが大事か考えれば答えは自明だと思います。
スポンサーリンク
安全性を考慮した組体操も
娘の保育園では外部の体操を専門とする先生が組体操を取り仕切っていました。専門家ではない担任の教師が指導することの多い小学校などに比べればこの点は幾分ましなのかもしれません(しかし体の発達を考えるとやはり危険だと思います)。
今回私が見た組体操では、3段ピラミッドの2段目の子は1段目の子の背中に乗るのではなく地面に立ち、前かがみになって下の子の背中に手を置く形でした。これはおそらく下の段の子の負荷を軽減するためのやり方でしょう。各ピラミッドの周りには補助役の保育士さんが一人ずつ付いていました。
安全性を考慮することは良いことだと思いますが、一番安全なのは組体操をやらないことです。これまで事故が一件も起きていない場合でも、いつ起こるかはわからないわけです。もし起こってしまったら取り返しがつきません。
安全性を考慮して組体操を行っている様子を見ると「じゃあやんなきゃいいじゃん」と突っ込みたくなります。「そこまでして組体操をやる意味はなんだ」と。
スポンサーリンク
組体操に教育的効果はあるのか?私の経験
組体操に対する逆風が吹く中、それでも組体操を支持するという人は多くいます。そういった人たちが組体操を行う上で主張するのが「教育的効果」です。それらのほとんどは根性論、精神論の域を出ないものばかりだと思いますが、果たして組体操に教育的効果はあるのでしょうか。
自分が全体を組み立てる部品の一つになるということを、身体で覚えさせる、というならともかく、大した教育効果があるようには、私には思えないのですが。
恐怖の克服、というのは時代錯誤だし、リスクをとっての身体運動というのならば、もっと動的で楽しいことはたくさんあるように思います。
出典:茂木健一郎オフィシャルブログ
上で引用した茂木健一郎さんの考えに私は賛同します。組体操に教育的効果はないと思います。
自分の経験を例にとってみると、小学生時代に行った組体操は苦痛でしかありませんでした。背が高い方だったのでピラミッドの一番下になり、掌や膝に小石がめり込んで痛かったのを覚えています。
私の姉も小学生の頃背が高くピラミッドの一番下になり、重みで足を負傷しました。徒競走で足を引きずりながら走っている痛々しい姿は今でも鮮明に思い出すことができます。
私の実感からすると、組体操に教育的効果なんてものはないです。無意味です。無意味であることを強制されることほどの苦痛はありません。それを耐え忍ぶことを根性やら精神的強さと呼ぶのならそんなものは持っていない方が良いでしょう。人間が積み重なって「ほら見てすごいでしょ!」みたいなシュールな見世物を小学生、中学生、ましてや就学前の子どもがやる意義などどこにあるのでしょうか。そのような無意味なことを命じられるままに実行する態度が「良し」とされるのであれば、それは教育的観点から見て害悪ですらあると思います。
ただ、これはあくまでも私の個人的な意見です。「組体操を経験して良かった」と言う人もいますから、人によっては教育的効果を実感している人もいるのかもしれません。
教育に関して語るとき、多くの人は自身の経験に基づいて話すために実りある議論に繋がりにくいと、大学時代に受けた教育社会学の授業で教授が話していたのを覚えています。私は組体操の教育的効果について書かれた学術論文などを読んだことがないので、この件に関して私が抱く疑義は主観の域を出ません。
しかし、組体操の意義としてよく耳にする「協調性」、「一体感」、「達成感」だとかいうものは、ダンスや他のものでも代替可能だと思います。少なくとも、子どもを危険な目に合わせてまで行うほどの価値はないと思います。
もし、子どもが危険な目に会うリスクを上回るほどの教育的価値があるなら、なぜ世界の他の国々で組体操が行われていないのでしょうか。教育先進国と言われる北欧諸国の子どもたちがピラミッドを作っている映像を見たことがある人はいませんよね。
経済大国としてイケイケだった時代なら、「組体操こそが日本の成功の秘訣なのだ!」なんて言えたかもしれませんが、今や衰退する一方のこの国の現状を顧みれば、「組体操なんてやってるから日本はダメなんだ」とつい言いたくなってしまいます。
運動会は誰のためのもの?
組体操がなくならない大きな理由は、教育的効果云々というより、運動会が「見世物」、「ショー」になってしまっているということが背景にあると思います。
組体操事故や体罰問題などについて研究している内田良氏は、運動会が大人たちが楽しみにする「ショー」としての性格を強めていると指摘しています。
巨大な組み体操は、けっして学校が独断的に推進してきたものではない。保護者と地域住民の熱狂なしには生まれなかった。巨大なものが披露されることを、保護者や地域住民が心待ちにしていて、技が完成されれば、グラウンドは感動の涙と拍手に包まれる。それに手ごたえを感じた学校は、来年はもっとよいものを披露しようと、いっそう力を入れていく。
出典:運動会は誰のため? 110年前の運動会批判から学ぶ
運動会が子ども本位ではなく、観客本位になっていることに組体操の巨大化の理由があるというのは非常に説得力があります。感動を求める保護者の存在が子どもたちを危険に晒しているのであれば、大人たちがその歪な構造を自覚することなしに危険な組体操がなくなることはないでしょう。
もしくは、茂木健一郎さんが言うように今後学校側が訴訟リスクを恐れて組体操を廃止するような流れもできてくるかもしれません。
事故などで、教師や学校が訴訟の対象になるリスクがより顕在化すれば、自然に、リスクを避けるために組体操は衰退していくのではないでしょうか。そのような流れが好ましいかどうかは別ですが。
出典:茂木健一郎オフィシャルブログ
日本の学校お得意の事なかれ主義で組体操がなくなるならそれはそれでいいような気もしますが、できれば組体操の是非からさらに進んで当たり前に行っている運動会それ自体の意義についてまで議論が深まるのが理想だと思います。他国では日本のような形式の運動会は行われていません。
私は運動会自体なくても構わないと思っています。大人たちの見世物ではなく、あくまでも子どもたちが楽しめるSports Dayのようなものであればあってもよいと思いますが。
今回私は、保育園での組体操を見て「組体操=感動」という図式が保護者に刷り込まれる最初の瞬間を目撃したような気になりました。保育園から配られたアンケートには「組体操はやらなくても良いと思う」との意見を書かせていただきました。
保育園の運動会自体は、普段子どもが園でどのように過ごしているか見ることの少ない保護者にとって貴重な機会だと思いますし、親子競技などもあって楽しかったのですけどね。
娘が年長クラスになるまで後3年。小学校6年生になるまでにはあと9年。その間に組体操を巡る議論がどのように展開されていくのか、今後も注視していきたいと思います。
スポンサーリンク
関連記事
▼保育園の徒競走で順位を付ける意味が分からなくなりました。