筒井康隆『夢の木坂分岐点』感想

筒井康隆の『夢の木坂分岐点』を読了した。

筒井康隆『夢の木坂分岐点』感想

翻弄される面白さ

筒井康隆は小説世界の規範をことごとく破ってきた。束縛からスルスルと擦り抜けて自由自在に飛び回り、エンターテイメントから純文学、ライトノベルまで何でも書いた。『時をかける少女』から『虚航船団』まで振り幅の広さはすごい。ときに俳優をやっているかと思えばふとTVをつけると所ジョージとバラエティ番組に出ていたりもする。生来、枠に収まることができない性分なのだろうか。読者を置いてけぼりにして暴走することもしばしば。翻弄されている感覚は楽しくときに病みつきになる。私は筒井康隆の小説を読む面白さはそこにあると思う。

谷崎潤一郎賞を受賞した『夢の木坂分岐点』(新潮文庫)は筒井康隆の本領が存分に発揮されている。発揮され過ぎていて難解であるとの印象を受ける人も多いようだ。

現実、虚構、夢に優劣をつけない

時代劇を思わせる夢の世界から醒めた主人公「小畑重則」はごく平凡な中間管理職の会社員であるが、ストーリーが進むにつれて「大畑重則」「大畑重昭」「大村常昭」と次々と名前が変わっていく。妻と娘や会社の上司、同僚の名前も変わり、その関係性も変容を繰り返す。主人公の男はあるときはサラリーマンであり、ある時は兼業作家であり、ある時は専業作家である。夢、現実、虚構が入り乱れ、人生は四方八方に分岐し、その内のどれが特権的な地位を持っているのか小説内で語られることはない。どころか、作中で主人公はこんなことを言ったりする。

現実と虚構と夢、この三つの世界を等価値と看做して生きる(p164)

現実の世界を、これは虚構世界だとか夢の世界だとか思っても差し支えはない(同上)

多層的、多元的な世界に投げ込まれた読者は一体全体主人公がどこにいるのか、現実世界はどこにあるのか、話の筋はどこからどこに向かっているのか訳が分からなくなる。主人公と共に路頭に迷う。私は端から話の筋や登場人物相互の関係性といったものを追うことを放棄した。そんなことをしてもあまり意味がないと思ったから、というより上に引用した言葉の通り、この小説の形式自体が目まぐるしく変化する視点人物と共に目の前に展開される世界に迷い込むことを意図していると思われたからだ。

シームレスな場面転換

次々と移り変わる場面の切り替えは潔く、迷いがない。並みの作家ならためらうような大胆な場面転換も筒井康隆は躊躇することなくやってのける。しかも場面と場面の繋ぎ目がシームレスなので、読者は自分の見ている空間、世界の移り変わる瞬間をはっきりと捉えられない。中盤から終盤にかけて、場面転換のスピードが一気に加速していくところは圧巻だ。

このような作風を難解と捉えるか、翻弄されながらも面白がれるか、人によって捉え方や感じ方は異なるだろう。この作品は起承転結のようなストーリーの起伏を求める読者にはお勧めできない。明確なあらすじやストーリーがなく、それとは別のところに面白さを宿している作品を好む読者にお勧めする。

筒井康隆=文壇のアナーキスト?

現実と虚構と夢が等価なものとして扱われ、さらにサイコドラマが加わって登場人物が架空の人物を演じたりもする複雑なメタ構造を持つ本作は、次のような文章によって作者筒井康隆の存在さえも読者の意識の俎上に載せられる。

文壇制度の中でラディカルであることを義務付けられ制度としての言語に縛られたままでアナーキイであれと要求される。賤業作家だ。ひでえもんだ。やめた方がいい。(p295)

筒井康隆は「文学の世界におけるアナーキスト」という十字架を自ら背負っている(と自覚しているようだ)。

筒井康隆の小説は、読むに耐えないものと面白いものとに二極化される印象がある(私にとっては)。今回はとても面白く読めた。