映画フューリー感想|武藤貴也議員に観て欲しい【WOWOWで観た映画】

WOWOWでブラッド・ピット主演の映画フューリー(Fury)を観ました。

戦車戦を中心に描いた「戦車映画」

この映画はブラッド・ピット演じるドン・“ウォーダディー”・コリアー率いる戦車部隊に所属する隊員達の戦いを描いた戦車映画です。これまで数々の戦争映画が作られてきましたが、戦車での戦闘がメインの映画というのはあまり多くないのではないでしょうか。

第二次世界大戦を描いた作品の中で、おそらく一番メジャーな舞台は、『史上最大の作戦』や『プライベート・ライアン』に代表されるノルマンディー上陸作戦でしょう。日本が戦った太平洋戦線だと『シン・レッド・ライン』や『トラ・トラ・トラ!』辺りが有名でしょうか。

ノルマンディーでは陸軍の歩兵部隊、太平洋戦線だと戦闘機や戦艦、陸軍歩兵部隊のゲリラ戦などが主に描かれてきました。それらにも戦車は出てきますが、メインではありません。戦闘に使用される兵器では、Uボートなどの潜水艦や戦闘機、戦艦(日本映画に多いかな)の乗組員の戦いを描いた作品は結構あると思いますが、戦車は脇役という印象が強いです。

戦車メインの映画が(おそらく)少ない理由の一つは、迫力のあるアクションシーンを撮りづらいということがあるのではないでしょうか。動きも遅そうですし。

『フューリー』では、そんな戦車戦をメインに描いています。その力の入れようは凄まじく、世界に7台しか現存しないドイツのティーガーI戦車の中で、英国ボービントン戦車博物館が保有している唯一稼働状態にある実車を使って撮影が行われたそうです。

このティーガーIと、戦闘力で劣るアメリカの戦車「フューリー号」の一騎打ちは本作の見所の一つです。ノロノロと動くからこその緊迫感というようなものがあり、砲弾を込めて発射するまでの間、「早く早く」と手に汗握る感覚は、これまでの映画にはなかったものだと思います。また、戦車という密閉された空間だからこそ、運命を共にする隊員同士の人間ドラマの濃度が高まっているとも感じました。

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戦争に行きたくないのは当たり前

武藤貴也議員に『フューリー』を観てほしい

先日、自民党の武藤貴也とかいう衆議院議員が、国会前で安保法案反対のデモを行っているSEALDsという学生団体の若者たちに対してTwitter上でこんなことを言いました。以下、引用します。

SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ

wikipedia

まあ、ツッコミどころ満載の間抜けな発言なわけですが、この方には是非、『フューリー』を観ることをお勧めします。

ローガン・ラーマン演じるノーマンの眼を通して描かれる戦争の悲惨

『フューリー』に話を戻すと、この映画で描かれるフューリー号の隊員たちは皆、北アフリカ戦役を経験している歴戦の強者揃いで、そこにローガン・ラーマン演じるノーマンという若者が配属されます。

ノーマンは、タイピストの仕事をしていて戦闘経験はゼロ、映画の中で彼は徐々に戦争の凄惨さ知っていきます。彼は人を殺すことを拒絶し、そこから逃げようとするような普通の若者で、現代の観客は彼の眼を通して戦場の恐ろしさを目の当たりにすることになります。

戦場というのは問答無用で人間性が剥奪される最悪の世界だということを思い知らされます。本作では、戦争に行きたくないという気持ちが当然なものとして描かれていて、だからこそノーマンが観客が感情移入すべきキャラクターとして設定されているわけです。

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戦場に流れるピアノの音色

制圧した街の一室でノーマンがピアノを弾くシーンがありますが、ここで観客は彼と共に束の間の休息を得ます。ごくありふれた日常が回帰し、人間性が回復するこの場面はベタだと思いつつも感動してしまいます。それまで恐怖におののいていたエマという女性(部屋の住人)はそこで初めて笑顔を見せ、ピアノに合わせて歌を歌います。

このエマというドイツ人女性が作品内で戦争の悲惨さを強調する役割を担っています。ブラッド・ピット演じるドンによって、ノーマンはエマと肉体関係を持つことを半ば強制されますが、二人の間には恋が芽生えます(ここは強烈に違和感を覚える描写)。

次の戦闘に向かうためにノーマンたちが建物を出た直後に砲撃があり、エマの住む建物は破壊され、彼女は死にます。出会って、恋して、死ぬまでの展開が早過ぎる感はありますが、恋もピアノも人の住まいも一瞬にして破壊してしまうのが戦場だということでしょうか。とはいえ、女性という存在を映画のドラマ性を強調するための道具として利用しているように思えて、かなりモヤモヤするシーンでもありました。

戦争を拒否した人々

この映画では戦争を拒絶したドイツ人の姿が描かれています。フューリー号が街に近づいたとき、木の枝に女性の遺体がぶら下がっているのが映ります。彼女の身体には看板が提げられていて、そこにはドイツ語で「Ich wollte meine kinder nicht kämpfen lassen.」と書かれています。これは「私は我が子を戦わせたくない」という意味で、つまり自分の子を戦争に行かせることを拒否した母親が、街の人々もしくはナチスの軍人に殺され、見せしめとして晒されているということです。

また、「僕は卑怯者、戦いを拒否しました」という看板を首から提げた少年兵の遺体が窓に吊るされている場面もあります(ドイツでは戦況が不利になる中で、ヒトラーユーゲントと呼ばれる少年少女たちも戦闘に参加させられるようになりました。最年少は10歳です)。実際にドイツで戦闘を拒否した人が殺されて遺体を晒されたという事実があるのかどうかは分かりませんが、日本では赤紙を拒否した人が逮捕されたり、結核などの病気が理由で招集されなかった人が非国民の扱いを受け村八分にされたということがありました。

戦争に行きたくないという思いを抱いていた人は第二次大戦中も数多くいたわけです。行きたくないのに無理矢理連れていかれて死んでいった人々が数えきれないほどいたのです。そういう歴史を経た後の現代に生きる若者が「戦争に行きたくない」と思うのは「エゴ」でしょうか。「極端な利己的考え」でしょうか。さらに言うなら、実際に戦争を経験した多くの方々が「二度と戦争には行きたくない」と言っていますよね。「もう一回行きたいな」などと話すご老人を見たことがあるでしょうか。件の武藤貴也議員は、「戦後教育のせい」とかほざいていますが、戦後教育に問題があるというならそれは、武藤議員のような歴史を忘却した人間を産み出し、そんな人間が国会議員にまでなっているということではないでしょうか。私はSEALDsのような若者の存在は、この国における数少ない希望の一つだと思います。この映画を観てよりその思いを強くしました。

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