『ノア 約束の舟』あらすじと感想|家父長制って最悪ですね

WOWOWで『ノア 約束の舟』という映画を観ました。色々と考えさせられる内容だったので、まとめてみたいと思います。

元ネタは旧約聖書のノアの箱舟

旧約聖書のノアの箱舟(方舟)といったらクリスチャンじゃない人でも知ってる超有名な話ですね。簡単にまとめると、こんな感じの話です↓

罪深い人間の姿を見て彼彼女らを創造したことを後悔した神は、洪水によって人間および動物たち(とばっちり)を滅ぼすことにした。神は、「神に従う無垢な人」(創世記第6章9節)であったノアに、箱舟を建設し妻子と一部の動物たちと共にそこに入るよう命じる。神は洪水を起こし、ノアと彼と共に箱舟にいたものだけが生き残った。

こうやってまとめてみると、非常に残酷な話ですね。旧約の神は「裁きの神」で新約の神は「赦しの神」なんてよく言われますが、まさに厳格で無慈悲な裁きの神って感じですね。

旧約聖書の「創世記」第6章から9章に該当するこのノアの箱舟(方舟)物語を元に作られた映画が今回紹介する『ノア 約束の舟』(原題Noah)です。

監督は『レスラー』や『ブラック・スワン』、『ザ・ファイター』のダーレン・アロノフスキー。主演のノア役はラッセル・クロウで、ノアの祖父メトシェラ役にアンソニー・ホプキンス、罪深い人間たちのボス、トバル・カイン役にレイ・ウィンストン、ノアの息子ハム役にローガン・ラーマン、ノアの養女イラ役にエマ・ワトソン等々、かなり豪華なメンツが揃っています。ローガン・ラーマンとエマ・ワトソンは『ウォール・フラワー』でも共演していましたね。

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“聖書の記述を忠実に再現した映画”ではない

この映画、聖書に書かれたことを忠実に再現した映画ではありません。というか、聖書におけるノアの物語は、たかだか数ページに過ぎない話なのでそのまま映画にするというのはかなり難しくて、監督なりの解釈や創作が作品に反映されているのは当たり前のことです。各キリスト教会や一部のイスラム教国では作品への批判があったり公開禁止になったりしているそうですが、それも当然でしょう(ちなみに、ノアはイスラム教においても重要な人物で、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされています)。

どちらかというとギリシャ神話を題材にした『インモータルズ -神々の戦い-』とか300 〈スリーハンドレッド〉と同じ系統の作品ではないでしょうか(テーマはもう少し深刻ですが)。泥の塊と化した堕天使とか、かなりファンタジックなキャラも出てきますし。実際、ギリシャ正教会の司祭からは「『47RONIN』(が忠臣蔵を破壊している)くらい原作を破壊している」との批判も出ているようで言い得て妙だなと思いました。まあ、アロノフスキーも聖書を題材にするという時点で宗教界からの批判は覚悟していたでしょうね。

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家父長制の恐ろしさ

僕がこの映画を観終わってまず感じたことは、家父長制って最悪だなぁってことです。「神に従う無垢な人」であるノアは、神の意志を忠実に守ろうとするあまり長男セム(ダグラス・ブース)と養女のイラ(エマ・ワトソン)の間にできた子を殺そうとします。神に選ばれたノアとその家族ですが、彼らもまた罪深い人間であることに変わりはないとノアは感じ始めます。そして、いずれ自分たちも死に、人間が完璧に滅びることを神が望んでいると思い込み(究極のペシミズム)、子孫を残してはならないと考えるのです。でも、神は別にそんなことは言ってないんですね。ずっと沈黙しているんです。つまりノアが勝手に神の意志を推測しているだけの話なんです。で、恐ろしいのはノアのその判断に誰も逆らえないってことです。妻のナーマ( ジェニファー・コネリー)は全力でノアを説得しようとするんですが、最後は諦めちゃうんです。これは家長権(家族と家族員に対する統率権)が男性(父親)に集中している家父長制的価値観が背景にあるからです。沈黙を続ける神の意志を勝手に忖度したノアの暴走が始まる映画後半は、まさにサイコホラーです。言葉は悪いですが、ノア、完全にイカレちゃってるんですよ。大いなる意志の前では人の命も犠牲にすべきというノアの考えはカルト宗教そのものです。

そんなノアと対立し、映画のクライマックスで格闘するトバル・カイン(レイ・ウィンストン)は、人間は神の意志ではなく自らの意志に従って生きるべきという考えの持ち主なんですが、おそらく多くの観客は敵役であるトバル・カインの考え方にシンパシーを感じるでしょう。敵役の思想や考えに説得力があるというのは作品世界を豊かにするので、その点この作品は上手い作りになっているとも言えるんでしょうが、ノアがあまりにもイっちゃってるので僕は最後の方ずっとイライラというかムカついてました。聖書に記述されている話は不条理で理不尽なものが多く含まれていますが(特にヨブ記)、読む側はそれらを神話として読むので、そこから何らかの解釈を導き出そうとする意識が働きます(聖書の記述一字一句に誤りがないとする聖書無謬説を信じる人の場合は別です)。ただ登場人物が現代に生きる我々と似たような感情を持つ人間として描かれている本作では、不条理や理不尽さが目の前に突き付けられ、というか聞き分けのないノアのアホさ加減に圧倒され、目の前で展開されている出来事の奥に何らかの意味を見出そうとする意志が挫かれてしまうので(あくまでも僕の場合は、ですが)、頭のおかしいオッサン(家父長)に対する苛立ちと彼の暴走に巻き込まれる不幸な妻と子供たちへの同情の方が勝ってしまうんです。

映画のラストにおけるノアの言葉もザ・家父長制って感じです。以下引用します。

神は自らをかたどったアダムに世界の差配を任せ
その使命は
後に継がれた
私の父から私へそして私の息子たちへ
セムと
ヤフェト
ハムへ
孫たちが更にその使命を
引き継ぐ
お前たちが
果たすべき責任だ
だから言い残そう
“子を産み”
“子孫を増やし”
“地に満ちよ”と
(翻訳者 戸田奈津子)

聖書の記述を言い換えたような内容なんですが、やはり映画のラストシーンで主人公がこの台詞を吐き、それを散々振り回された家族(ノアのおかげで生き残ったとはいえ)が笑顔で聞いているという演出には違和感を覚えます。

「世界の差配はアダム(男)に任され、その使命は私の父(男)に継がれ、私(男)そして私の息子たち(男)へと継がれた」って、つまり世界を動かすのは男ってことですよ。で、その後に子を産めとくる(笑)産みまくれと。産むのは当然女です。これは聖書の記述自体が男性中心的なものであること(イコール全てのキリスト教会が男性中心的とは言えません)を考えれば、原典に忠実と言えなくもないですが、変な泥の巨人が出てきたり聖書に出てこない登場人物(エマ・ワトソン演じるイラ)がいたり、なぜかノアとトバル・カインが格闘したりと、脚色しまくりの内容であることを考えると、現代の観客に向けてこの台詞をラストに持ってくるというのはどうにも腑に落ちません。どうせならあんな大団円って感じにしないで、つまはじきにされた孤独なノアが、ぶどう酒で酔っ払って全裸で寝そべってる場面(創世記第9章18節~28節)なんかをラストに持ってきた方が、良い意味で「ぶっ飛んだ」映画になって面白かったんじゃないかと思います(好き勝手言ってすみません)。

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ノアにアブラハムがブレンドされてる

ところでアロノフスキーの独創性が随所に発揮されている本作ですが、ノアのキャラクターも世間(特にキリスト教圏)において流布しているものとは異なります。

まず見た目ですね。一般的なノアのイメージって白髪白鬚のお爺さんだと思うんですが、本作のラッセル・クロウ演じるノアはグラディエーターばりのマッチョなおっさんって感じです。まあ、白髪白髭のおじいちゃんが主人公の映画なんてヒットしないでしょうしね。

僕が面白いなと思ったのはノアの人物造形です。聖書には「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(創世記第6章9節)っていう記述があるんですが、本作では“神に従う”という部分が非常に強調されています。上にも書きましたが、映画の終盤でノアは生まれたばかりの孫を殺すか生かすかという究極の選択に迫られます。神の意志(ノアによる解釈)に従うのであれば殺さなければならない、しかし人間的な感情からすれば当然殺したくない。この状況ってまさにアブラハムなんですよね。

アブラハムはノアの箱舟物語と同じ旧約聖書の創世記に登場する人物です。彼のエピソードの中に「イサクの燔祭(はんさい)」と呼ばれる有名なものがあります。こんな話です↓

ある日アブラハムは年老いてからできた一人息子イサクを生贄に捧げるようにと神に命じられる。信仰心の厚いアブラハムはイサクと共に山に登り大事な息子を刃物で殺そうとする。そこに神の御使い(使者)が突如現れ「ちょっと待ってアブラハム、お前が神を恐れる人間ってことがわかったからもう殺さなくていいよ」的なことを告げる。アブラハムは息子の代わりに雄羊を捧げる。

なんじゃそりゃって話ですが、山に登るアブラハムとイサクのやり取りは名場面で、結構泣かせます。

このアブラハムのエピソードと本作終盤のノアの究極の選択の場面は非常に似ています。このエピソードを参考にして、アロノフスキー監督は聖書における記述が少ないノアの人物造形をより立体的なものにしたんじゃないかと僕は推測しました。

ちなみにアブラハムは神への忠誠を貫いた人物として「信仰の父」なんて呼ばれていて、聖書に登場する数多くの人物の中でも超が付くビッグネームです。上でも少し触れましたが、イスラム教でも重要な預言者とされていて、アラビア語でイブラーヒームと呼ばれています。映画と全然関係ないですが、サッカーのズラタン・イブラヒモビッチの名前もここからきています。

ラストの虹は二度と洪水を起こさないという神の意志の表明

この映画のラストショットは曇り空にかかる虹なんですが、これは神が人と交わした契約を心に留めるという意志を表しています。映画の中で終始沈黙を続ける神がラストに登場するってわけです。これは創世記第9章の記述に依っています。一部引用してみましょう。

わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。<中略>わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。<中略>わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約を心に留める。<中略>これが、わたしと地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。(創世記第9章9節~17節-新共同訳聖書)

なんだか礼拝の説教みたいになってしまいましたね。この映画は聖書の知識があるとより楽しめると思います。聖書は読み物として非常に面白いのでぜひ手に取ってみてもらいたいです。文庫でも出てますよ。では、長くなったのでこの辺で。