長嶋有『夕子ちゃんの近道』感想|日常という祝宴とその終わり

長嶋有『夕子ちゃんの近道』(講談社文庫)を読みました。

長嶋有の小説は芥川賞受賞作の『猛スピードで母は』や『ジャージの二人』、『パラレル』など、これまでにいくつか読んでいるのですが、個人的にはこの『夕子ちゃんの近道』がベストです。まあ読んだばかりだからそう感じるというのもあるのでしょうが、とにかく良かったです。

第一回大江健三郎賞受賞作

『夕子ちゃんの近道』は、2003年から2004年にかけて『新潮』に掲載された連作短編集です。最終章の「パリの全員」のみ書き下ろしとなっています。

2007年には第一回大江健三郎賞を受賞しています。

大江健三郎賞は、選考委員が大江健三郎一人というちょっと変わった賞です。たしか、「死後に自分の名前を冠した賞が作られ、自らの意志とは無関係に作品が選ばれるのが嫌なので、恥を忍んでこの賞を創設した」というようなことを本人が言っていました。日本人でまだ二人しかいないノーベル賞作家ですからね。死後に『大江健三郎賞』という賞が作られてしまうことは間違いないわけで、それなら自分で作ってしまおうと。存命中に自分の名前を冠した賞を作るというのもまた勇気がいることだったと思いますが。

2014年に終了した同賞ですが、これまでに受賞した8作はどれも面白い作品ばかりでした。いずれブログに感想でも書こうかと思っています。

長嶋有『夕子ちゃんの近道』感想

透明な語り手としての僕

この作品は出自も名前も不明な主人公である「僕」の語りによって物語が進んでいきます。物語といっても、何か特別大きな事件や出来事が起こるのではなく、自分と身の回りにいる人々が生きる空間とそこに流れる時間が丁寧に描写されます。

特徴的なのは、主人公が一体何者なのか分からないということです。せいぜい性別が(おそらく)男性であること、年齢が30歳くらいであること、過去に大学に通っていたこと、大学時代に清掃のバイトをしていたこと、くらいしか作品内での説明はありません。

得てして一人称で書かれる小説の多くは、語り手である主人公の過去だったり内面だったりが描かれるものですが、本作はそういった「自分語り」がほとんどありません。「僕」は自らの存在を前面に押し出すことなく、まるで三人称小説の語り手のように「語り」に注力し、人々、物、世界を事細かに観察します。観察者としても非常に優れた「僕」の語りは、店長や瑞枝さん、朝子さん、夕子ちゃんといった他の登場人物たちの個性を際立たせ、普段の生活で当たり前のように使っているが意識することのない「物」の存在を読者に想起させます。ときにその視線は名もない人物(例えば主人公が寝泊まりしている古道具屋の近所にあるバイクショップの店員や、パリの街で見かけた物乞い)を捉え、語られない人々の人生の背景までもを読者に想像させます。

永遠に続くことのない日常

「僕」の目を通して語られる日常は心地よく、しかし読者はその日常が永遠に続くものでないことを不意に思い知らされることになります。連作短編の最後から二番目の「僕の顔」において、語り手の「僕」の情報がほんの少しだけ明かされます。これまでほとんど謎の存在であった僕の顔が、他の人から「暗い顔」と言われ、最後まで明かされることのない「僕の名前」の漢字についての言及があり、さらに自分が何者であるかの説明がほんの少しだけなされます。読者は、物語世界の案内役として同伴していたこの語り手が、ぬっと存在感を増す瞬間にドキッとさせられます。そういえばこいつ誰なんだと。

自分自身への言及により作品内で不意に存在感を増した「僕」は、観察者から行動する人間へと役割を移します。それと同時に、小さな謎を持つ個性豊かな登場人物たちが作り上げる心地よい時間に終わりが訪れます。唐突に訪れた「終わり」に、しかし不自然さを感じることはありません。「僕」を含め、≪めいめいが勝手に、めいめいの勝手を生きている(p239)≫彼彼女らの間に横たわる日常が永遠には続かないことを読者は薄々感じ取っているはずだからです。それは私たちが日々経験的に知っている事実です。誰しもがちょっとしたはずみで失われてしまうような奇跡的な時間の中に生きている。私は読後にそんなことを思いました。

ちなみに、最後の『パリの全員』で、「終わり」と思われたものが実は「終わり」でなかったことが分かりますが、しかしそれもいずれ「終わる」ことを私たちは知っています。著者である長嶋有は最後に、この連作短編集全体を総括するようにパリを訪れた語り手の「僕」にこう言わせます。

そのとき不意に、自分が旅をしていると思った。昨日から旅をしていたのだが、そうではなくて、もっと前、フラココ屋の二階に転がり込んだときから、旅というものがずっとずっと途切れずに続いているように思って、一瞬立ち止まった。(p268)

この作品を読み終えようとする読者は、人生は旅であるという使い古されたこの言葉を、説得力のあるものとして受け入れることができるでしょう。一度終わった日常は、マイナーチェンジを繰り返しながら延々と続くものなのかもしれません。それを作者はと読んだのではないでしょうか。