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WOWOWシネマでリチャード・リンクレイタ―監督の『6才のボクが、大人になるまで。(原題:Boyhood)』を見ました。12年間に渡って撮影するという驚愕の手法で作られた映画です。
本作は世界各国で絶賛され、有名な映画批評サイトRotten Tomatoesで批評家支持率98%という驚異的な評価を得ています。作品賞など6部門にノミネートされたアカデミー賞では、助演女優賞をパトリシア・アークエットが獲得したのみにとどまりましたが、世界各国の映画賞を数多く受賞しました。
目次
12間同一キャストという驚愕の手法
『6才のボクが、大人になるまで。』の最大の特徴は、12年間、断続的に同一キャストで撮り続けたという手法です。主人公だけならまだしも、他の登場人物を演じる俳優も皆同じというのは他に類を見ません。映画評論家の町山智弘さんもTBSラジオ「たまむすび」内で「映画史に残る」と発言しています。『大人は判ってくれない』に代表される、フランソワ・トリュフォー監督の『アントワーヌ・ドワネル』シリーズ5部作など、シリーズ物としては過去にも似た手法のものがありますが、一つの作品内で10年以上の時が経過するという映画はおそらくありません。
これは、俳優が事故にあったり病気になったり、犯罪を犯したり等々、何らかの理由で映画製作が滞る、最悪の場合は破綻する可能性もあったことを考えると非常にリスキーな手法だとも言えます。結果的に映画として成立させることができなければ、膨大な時間と費用を無駄にすることになるわけです。日本でこのような作品を作ることは難しいでしょう。予算も限られていますし、何か問題が起きるとすぐにお蔵入りさせてしまう風土もありますから。
ちなみに主人公メイソンの姉サマンサを演じるのはリチャード・リンクレイター監督の実の娘であるローレライ・リンクレイター。監督のインタビューによると、彼女の方から作品に出演したいと言ってきたそうです。
脚本はどのようにして書かれたのか
12年間に渡って撮影を続けていれば様々な変化が起こります。そんな中でどのように脚本を書いたのでしょうか。リンクレイタ―監督のインタビューによると、大枠は決めていたそうですが、出演者の主人公メイソン役のエラー・コルトレーンの成長に合わせて内容に変化を加えていったようです。作中では高校生になった主人公が写真家を目指す設定になっていますが、これもエラー・コルトレーンが実際に写真に興味を持ったからとのこと。
また、出演者のパトリシア・アークエットやイーサン・ホークと話し合い、アイデアを出し合って作ったそうです。このような作り方はリンクレイタ―監督の映画製作に対する考え方からきているものと思われます。イーサン・ホークがインタビューで次のように語っています。
大体の監督はエゴが強くて、自分こそがフレームを支配する人間だと思っているし、自分だけのビジョンを強く持ってる。それが普通の監督なんだ。でも、リチャードは唯一、自分の意志も明確に持ちながら、“一緒にビジョンを作り上げてくれ”と言い、僕たちの考えも喜んで受け入れてくれる。だから、リチャードは“My Vision”という言葉を決して使わない。必ず“Our Vision”と言うんだ。
(引用元:【インタビュー】イーサン・ホーク 12年間にわたる“家族”との撮影『6才のボクが、大人になるまで。』)
周囲の意見を取り入れながらあらすじやストーリーを柔軟に作っていくというリンクレイタ―監督が元々持っていた姿勢といったものが、本作を一本の映画として成立させることができた大きな要因と言えるでしょう。
主人公は12年という「時間」
「時間」というテーマを描くための手法
12年間同一キャストという離れ業をやってのけた本作ですが、手法的に画期的だからという理由だけでこの映画が評価されているかというと、そうではありません。手法が前衛的だったり奇抜だったりする映画は数多くありますが、それらが全て名作とはなりません。
本作『6才のボクが、大人になるまで。』は、12年間同一キャストという撮影方法が作品の「主題」を表現するための手段として適切であり、必然性を持っているからこそ、評価されているのだと思います。リンクレイタ―監督も「成長の物語を描く唯一の手段としてこれしかなかった」とインタビューで語っています。
では、本作に「主題」があるとしたらそれは何でしょうか。
斎藤工さんと板谷由夏さんがナビゲーターを務めるWOWOWの映画工房で、レギュラー出演者の映画評論家中井圭さんが、本作について次のように紹介しています。
主人公は彼(メイソン)ではない。彼がそこにジョインしている時間そのものの流れが主人公なんです。
続けてこうも言っています。
形の無い物を目に見える形で提示するのが傑作の条件だと思います。
この解説には、正に正鵠を射るといった感じで納得させられました。
リンクレイタ―監督はこの作品で描こうとしたものについて、「少年の成長の物語(原題はBoyhood)」、「人生」、「子育て」、といった言葉を使っていますが、12年という時間の流れそのものを中心的なテーマとして捉えると、よりこの映画が達成していることの凄さを感じることができます(主題なんて見る人によって無限にあるとも言えるし、そんなもの全くないとも言えるものですが、本作に関しては、主題を便宜的に設定して読み解いた方が作品をより豊かに味わうことができると思います)。
主題を「時間を描くこと」と捉えた上で本作を見てみると、12年間同一キャストという撮影方法が如何なくその効果を発揮してることが分かります。
2時間46分という映画としては長いが僕たちが生きている人生に比べれば一瞬と言っていいほどに短い時間の中で、少年の6才から18才までの12年間が描かれていきます。場面転換はシームレスで、大仰な演出もなく淡々と。特筆すべきは、時間の流れそのものが、メイソンをはじめとする登場人物たちの年齢の変化によって画面に表れているということです。
映画の中には、12年どころか100年近く(場合によっては数千年)に渡る時間が作品内で描かれるものが多くありますが、そういった作品では少年期と青年期、老年期でキャストを変更するか、特殊メイクによって歳をとっているように見せかけることになります。幼少時代から老年期までを描く場合、普通の制作方法では同一キャストというのはほぼ不可能です(日本では30過ぎの俳優が学生服を着るという作品が数多く見られますが、さすがに小学生に扮するというのは見たことがありません)。しかし本作では、主人公の少年や姉、母親、父親が特殊メイクでも何でもなく素のままに年齢を重ねていくのです。
シーンが変わるごとにメイソンと姉のサマンサは成長し、大人たちは歳をとります。面影は残しつつも明らかに変化していると分かる姿で画面に現れるのです。他の多くの方と同じように、フィクションとして撮られた作品でこのような映像を見た経験が僕にはありません。同じ人間が作品内で実際に年齢を重ねていくというのは、12年間断続的に撮影したというこの手法なくして実現できませんでした。彼彼女らのリアルな身体的変化を目の当たりにし、観客は時の流れを実感することができます。
また、作中に登場するポップソング、アニメ(ドラゴンボールのポスターが部屋に貼ってあります)、ゲーム、PC、ipodもまた、折々の時代を特徴づける小道具として上手く機能しています。特にホグワーツ魔法魔術学校の制服を着てハリーポッターの出版記念のイベントに子どもたちが参加する場面に懐かしさを覚えた人は多いのではないでしょうか。
時の移り変わりを伝えてくれるもう一つの要素がアメリカの政治状況です。メイソンが幼少時代、イーサン・ホーク演じるメイソンの実父がイラク戦争の馬鹿らしさについて語るシーンがあり、数年後には大統領選挙でバラク・オバマを応援する場面があります。他人の家の庭からジョン・マケインの看板を引っこ抜く場面には笑いました。
瞬間の集積としての時間。要約は不要
この映画にはドラマチックな展開などありません。ですから、「感動のストーリー」なるものを期待して見ると肩透かしをくらいます。母親の離婚や義父の暴力、実父との絆など、ドラマチックな要素事態はあるにはあるのですが、それらを全くドラマチックに描こうとしていないのです。中井圭さんの解説にもありましたが、それは主人公があくまでも12年という時間そのものだからです。主人公であるメイソンの心理や物語の展開が前面に出てしまうと、それがノイズとなり、12年の時間の流れに向くべき観客の注意がそれてしまいます。
映画の終盤、イーサン・ホーク演じるメイソンの実父が、恋人に振られた息子を励まそうと長広舌をふるう場面があるのですが、会話が一段落したのち、メイソンに「要点は?」と訊ねられた父親は次のように答えます。
要点なんか知るかよ。誰にも分からん。ただ、勢いでしゃべってる。
僕たちは自分が生きてきた過去の時間を振り返って何が要点だったかなどと考えるでしょうか。そういう人もいるかもしれません。自分の人生は○○だった、と一言で要約して語る人は多い気がします。しかし、過去の時間全てを要約し、分かりやすい言葉に置き換えるというのはある種の創作行為で、そこには一つの視点から見た解釈が混じります。これを「嘘」と言い換えてもいいかもしれません。
この映画は解釈を与えません。流れる時間そのものを見せる上で、解釈は邪魔になります。
ラストシーン。18才になり大学に入学したメイソンは、オリエンテーションをさぼって同部屋の友人たちとビッグ・ベンドという国立公園にハイキングに出かけ、知り合ったばかりのニコールという名の女性とこんな会話をします。
ニコール「どうしてみんな“一瞬を逃すな”って言うの?私はなぜだかそれを逆に考えちゃう。一瞬は私たちを逃さない」
メイソン「分かるよ。時間は途切れない。一瞬というのは・・・常に今ある時間のことだ」
僕たちが過去を振り返るとき思い浮かべるのは、まとまりを持った一つの物語ではなく、多くの場合、瞬間ではないでしょうか。鮮明に記憶に残っている衝撃的な出来事や、親しい人とのたわいない会話、どこかで見た風景など。この映画で言えばそれらは、暴力的な義父がテーブルにコップを投げつける場面であり、実父との車の中での会話であり、オープニングでメイソンが見上げている青い空です。それらはどんなに言葉を尽くしても再現することはできない瞬間そのものです。
子にとっての時間。親にとっての時間
切れ目のない瞬間の連なりとしての時間。しかしこの「時間」は万人にとって同じように感じられるものではありません。
僕が映画の中で一番印象に残った場面があります。大学の寮に入るための荷造りをしているメイソンとパトリシア・アークエット演じる母親のオリヴィアが会話するシーンです(アメリカの大学生のほとんどは高校卒業後に親元を離れて大学の寮に入ります)。
会話の途中、数秒の沈黙の後、オリヴィアが肩を震わせて泣き始めます。突然のことに何が起きたのか分からないメイソン。オリヴィアは「私の人生最悪の日」と嘆き、「この日が来ることは分かっていたけど、あんたがこんなに楽しそうに去っていくなんて思いもしなかった」と怒りをぶつけます。そして、自転車の乗り方を教えてあげたことや離婚したこと、大学に通って望んでいた仕事を得たこと、サマンサとメイソンを大学に送り込んだことなど、これまでの人生を振り返りつつ、もう後には葬式しか残っていないと叫びます。
この場面では、メイソンの成長を淡々と追っていた本作の視点が母親の心理にぐっとフォーカスされます。新しく始まる大学生活に心躍らせるメイソンとは対照的に、オリヴィアは自分の人生における大切な時間があっけなく過ぎ去っていってしまうような感覚を覚え、虚しさに襲われるのです。
再び短い沈黙の後、オリヴィアはこう呟きます。
もっと長いと思っていた。(I just thought there would be more.)
この言葉には胸を打たれました。短い言葉ですが、親として子を育てる時間の尊さ、それが過ぎ去った後に感じる切なさを的確に表現していると思います。2歳の娘を持つ親として、作品を通じて唯一この場面には感情移入してしまいました。
リンクレイタ―監督は、実際に子どもを大学に送り出した経験を持つ役者やスタッフと、この場面の台詞について話し合ったそうです。このシーンについて監督が語っている記事があるので、少し長いですが翻訳した上で引用します。
この場面を撮影する時点で僕は娘のローレライを大学に送り出していた。プロデューサーも同じように娘を大学にやっていたし、パトリシアの息子は数年前に大学入学のために家を出ていた。だから、こういった状況についてはお互い十分に共感し合えたし、この瞬間が何を意味するのかについて話し合ったんだ。パトリシアは子どもを大学まで連れて行ったときの様子を話してくれた。その時は平気だったけど、子どもを送って一人帰宅する途中に泣き出してしまったそうだ。プロデューサーのキャサリーンは、娘の引越しの後、空港から彼女に電話して、「分かってるでしょ、今日は私の人生最悪の日だわ」と伝えたときのことを話してくれた。そのときピンときたんだ。「そうだ!これはまさに母親のシーンなんだ」って。
(引用元:The Toughest Scene I Wrote: Richard Linklater on Boyhood’s Saddest Moment)
出演者やスタッフと話し合いながら脚本を作っていったことが良く分かるエピソードだと思います。
この、母と息子の別れのシーンを見て分かるのは、人間それぞれに異なった時間が流れているということです。特に親と子ではその違いが顕著になって現れます。同じ時間を共有してきたはずのメイソンとオリヴィアでも、時間の捉え方は全く異なっているのです。
本作で描かれている「時間」は、子にとっては成長の時間であり、親にとっては子育ての時間です。12年間同一キャストという驚きの手法で、「時間そのもの」を描きつつ、人によってその時間の流れ方、感じ方が異なるという多面性までも描き出している本作はあらゆる人におすすめできる一作です。
おまけ:おすすめの見方
これはDVDやブルーレイ、ストリーム動画などで見る場合に限りますが、是非、最後まで見終わった後にオープニングに戻ってみて下さい。
ポスターにも使われていますが、芝生に寝そべる6才のメイソンが青空を見上げている場面で、BGMにColdplayのYellowが流れます。この場面はオープニングであるとともに裏エンディングと呼んでもいいくらいに感動的なシーンです。オープニングとしても素晴らしいんですが、エンディングまで見終わってから見るとまた格別です。一つの作品内で18才から一気に6才までタイムスリップできるというのは本作ならではの醍醐味でしょう。
作中にある台詞ですが、「全ての時間が目の前に広がってる」ような感覚を味わえます。
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